目を養う

人、ものに対する審美眼を磨く。

骨董品や宝飾品の鑑定士になるには、「本物ばかり見続けること」が一番の近道と言われている。

本物ばかり見ていいると、偽物を見た時に違和感を感じるらしい。

ところが、一般社会では、本物と偽物の区別もないし、そもそも鑑定する必要がないよね。

だから、審美眼というより、観察力を磨くために目を養うってことかな。

観察することは大切。

まず、目を養うには、たくさんの人と出会って、多くのものに触れる、必要がある。

そう、経験が必要なんだ。

ネットじゃないよ、リアルな接触の積み重ねだから。

リアルな接触は、喜び、悲しみ、期待、失望、理解、後悔、愛情、嫌悪などの感情がダイレクトに自身につながる。

目を通して、そんな感情を経験して、覚えて、蓄積していくの。

また、同じように耳を通しても、蓄積されていくよね。

目、耳、どちらから得た情報も大切だけど、迷ったら、目からの情報を優先するようにした方がいいかな。

例えば、人は「何を言っているかではなく、何をしているのか、何をしてきたのか」で判断した方が間違いないよね。

だから、目を養うべきなんだ。

そして、養われた目は、人やものを理解するために使いたい。

基本的に、完全無欠なもの、100%正しいもの、間違っているものはないよね。

いいところも、わるいところも理解して、対処することが大切なんだ。

繰り返すけど、鑑定するわけではないからね。

まれに、人のことを見定めるような目つきの人がいるの。

こういう目つきの人は、常に人を試すような魂胆が、自然に目の表情に表れると、思うんだ。

「目は口ほどに物を言う」とも言うよね。

人のことを試すような行為や、独断的な決めつけをしてはいけない。

こんな目つきになったら、さまざまな不幸がくっついてくるから、日頃から心がけないとダメだよね。

例えば、赤ちゃんの目は澄んでいるよね。

大人の目とは、輝きが違う。

これって、目を通して得た経験って、目の輝きを失わさせるってことかも。

悲しいことではあるけど、しょうがないよね。

キラキラ感のある目は、希望や楽しみの光を目から発信しているのかな。

よくわからないけど、目の表情にも気をくばりたい。

理想は、百戦錬磨なのに涼し気な目元の人。

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真似る

「真似る」って深いんだ。

薄っぺらく受け取ると、「真似る」行為は、簡単そうで卑怯でダサい感じがする。

ところが、「真似る」行為は、難しく、勇気と強い意志が必要なものなの。

型を会得した人がするのを「型破り」という。

そうでなければ、ただの「形なし」。

これは、歌舞伎役者の故中村勘三郎さんの有名な言葉。

「型の会得」とは、先人たちの芸を真似し習得すること。

そして「型破り」とはオリジナリティのことだよね。

真似することなく、オリジナリティは生まれない。

真似をすることが、一流の芸を身につける近道で、同じように仕事でも趣味でも、誰もが、まずは真似ることから始めるべき。

お父さんが最初に働いた会社は、元商社マンで「営業の鬼」みたいな社長と事務の女性の2名しかいなかったの。

父親くらいの年齢で、短気だし、怖いし、震えあがりながら仕事をしていた。

そんな社長だけど、仕事もろくにできないお父さんからみても、やり手なことはわかった。

そこで、社長レベルの仕事は、到底無理だけど、社長の生活習慣は真似できると思った。

まず、社長は出社時間が早い。7時には会社に到着している。

だから、お父さんは、社長より早く6時30分には出社するようにした。

毎朝5時に家を出ていた。

そして、社長が読んでいた日本経済新聞、日経産業新聞、日経流通新聞(現在は日経MJ)の3紙をお父さんも購読した。

それまでは、スポーツ新聞くらいしか読んでいなかったから、読むだけで大変だった。

朝の通勤時に読みたいから、新聞販売店に、朝5時前に配達してもらうようにお願いしてね。

その他にも、話し方や、接客態度など、真似できそうなものを探しまくっていた。

当時は、社長の真似をして、一歩先の行動を予想して、怒鳴られたくなかっただけかもしれない。

でもね。この時の真似した行為が、仕事への取組み方の基礎となったことは間違いない。

真似ることは論理的実証性に関係なく、必要だし、間違いなく力がつく。

誰を何を真似るかについては、自分がいいと思った行動や、カッコいいと思ったしぐさなど、なんでもいいんじゃないかな。

難しく考えずに、とにかく真似る。

完コピするつもりで、全力で真似る。

そうすれば、自然と「らしさ」が生まれると思う。

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値切る、値切られる

値切るのが好きな人も苦手な人もいるよね。

東京と大阪では、値切りの感覚が違うように、地域性による違いもあるよね。

また、百貨店の店頭で値切る人はいないけど、問屋街では値切ることが当たり前みたいに、販売店によっても違うよね。

もっとも、インターネットの普及で、値段がオープンに提示され、容易に比較できて、値切る必要がない場面も増えた。

なによりも、値段に対する透明性があがった。

お父さんは、仕事で、金額交渉を日常的に行っている。

だから、値切る方、値切られる方の両方のことがわかる。

どちらの金額交渉もしているから。

例えば、必ず見積り金額から値引きを要求するお客様がいるとする。そういう人は、見積り金額の理由や内容など関係なく、とにかくまず、値切る。

値切るところから始める。値切れたら、納得してくれる。

こちらも毎回のことで、それがわかっているから、値切られることを想定した見積書を作成してしまう。

相手に対する誠実さでは、問題があるかもしれないが、値切ることが前提で、金額が正当か否か考慮をしない相手には、いたしかたないと思うようにしている。

反対に、自分が見積りに対して判断する場合、まずは見積り内容を精査する。

自分で納得できれば、値切ることはないが、金額に納得いかない場合は、相手に金額の根拠などの説明を求め、それでも納得がいかなければ、はっきりと値切る。

自分なりに、見積り内容の価値を図り、それに対して返答する感じ。

むやみに値切ることをしない。

そこで、心配になるのは、相手があらかじめ、お父さんが値切るだろうことを前提とした金額を提示したのに、値切ることなく、発注してしまった場合のこと。

値切る想定分だけ、お父さんは高く発注してしまった事になる。

不安になることもあるけど、自分が納得した金額なら、たとえ高く発注したとしてもしょうがないんだよね。

ところが、この不安を解消する方法が一つある。

それは、比較すること。

同条件で、見積りを複数に依頼する。

そうすれば、高く発注したかもしれない不安は取り除かれる。

ただし、見積り作業にはコストがかかることを理解するべきで、むやみやたらに複数で比較ばかりすると、相手から真剣に見積りされなくなってしまう。

値切るのも値切られるのも、そして比較するのも節度が必要になってくる。

節度がないと相手にされなくなる。

節度とは、正当性のある金額提示と判断、そして請け負ったことの責任感。

金額が正当かわからないことがあるよね。

そんな時は、相手にはっきりと尋ねればいいんだ。わからないことを聞くことはお互いのためになる。

反対の立場なら、きちんと答えられる正当性のある金額を提示しないといけない。

揉めたときには交渉時の何倍も大変なことになるから、金額の合意は、きっちりとしないといけない。

これが、金額交渉の基本だと思っている。

節度のある相手との取引は気持ちのいいもので、継続的な付き合いをしたくなるんだ。

節度もなにもない、理不尽な対応を要求する相手もいる。

そんな相手には、はっきりと断って、仕事をしない。

仕事を断るっと結構勇気のいることだけど、それができるのは経済的に断っても大丈夫なくらいの余裕があるから。

そういう精神的な余裕のためにも貯蓄や内部留保は必要だと思う。

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責任をとる

「あなたは、責任がとれるのか」

そこらじゅうで聞かない?

「責任をとれるのか」って言う人に聞きたいけど、「責任」とは何?

「責任」の範囲ってどこまで?

「責任をとれるのか」って一見大人ぶった言葉だけど、これほど無責任で子供っぽい言葉はないと思う。

ただ人を詰めたい時に、安易に使っているだけだよね。

「ボクはいいと思うけど、◯◯はどうかな、それでキミは責任がとれるの」

なんて、物わかりがいいと思わせる卑怯者的な発言聞いたことないかな。

まず、「ボクはいいと思うけど、◯◯はどうかな」って傍観者を装って、誰かに代弁させるようなこと、恥ずかしくもなく、よく言えるよね。

それで、「キミは責任がとれるの」って続いたら、「あんたどんだけ逃げて綺麗事だけ言って生きてきたのよ」って思う。

お父さんは「責任」って「覚悟」のことだと思う。

何をどこまで覚悟するのかって、自分で決めることだよね。

そして、それぞれの立場で覚悟の質も範囲も違ってくる。

他人から見たら、そんなもんでそこまでしか覚悟してないのかって思われても、どうしようもないよね。

例えば、子供が生まれた時、親として子供の成長に合わせたしつけや教育を受けれる機会を与える。

これが、太郎が生まれた時にお父さんが覚悟したこと。

これが、父親としての責任だと思った。

この覚悟だって、人それぞれだし、もちろん正解などないし。

覚悟って言うと、なんか筆でしたためて、血判するような感じにもなるけど、時には、そんな強い気持ちで自分に課すことも必要だと思う。

覚悟は自分を成長させるから。

自分の覚悟がないヤツにかぎって「責任をとれるのか」って言う。

「責任」の重みをわかっていない。

わかっていないから、安易に使うんだよね。

だから、もし「責任をとれるのか」って詰められたら、無視すべきだね。

何も答えずに、胸の中で「子供が吠えている」と思っていればいい。

わかるよね。

「責任をとれるのか」なんて言う人とは、大人の付き合いができない。

残念なことに、いちばん「責任をとれるのか」と吠えるのは、政治家だ。

覚悟のない人が多いのかな、笑。

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人の器

器の大きな人に憧れる時があるかもしれない。

人の器とは、包容力、対応力、才能や知識を生かす力を収めたものだと思っている。

あと、わかっているのに何も言わない優しさのような鈍感力も。

器は、人によって大きさや形が違う。

ショートサイズからベンティサイズもしくは、どんぶり、クーラーボックスまでいろいろ。

そして、器の大きさや形は、他の多くのものと同じで、自分ではわからないもの。

むしろ、他人の方が、わかることが多い。

「けっ。まったく器のちっちゃいヤツだな」なんて。

器の大きさや形は先天的なもので、努力しても変わらないと思う。

そして残念だけど、大きさ以上のものを入れると、溢れたり、壊れたりするんだ。

お父さんは何人も見てきたから、これは本当。

「宝くじ3億円当たったら、不幸になった」なんて、3億円入らない器だった人の器が壊れたってことだから。

それで、お父さんは器の大きさや形は変わらない前提で、変えるべきは器の中身だと思っている。

大きさは変わらないのだから、入れるものにこだわる。

入れるものとは、希望、こころざし、行動、失敗、恥、経験など、なりたい自分を構成する素。

そして、入れるものは、自分で選択できる。

受け入れられないものは入れなければいい。

そんな時に気をつけることは、受け入れないものを批判しないこと。

とかく人は、自分の器から溢れるものを批判するから。

だから器の小さい人は、攻撃的になってしまう。

ちなみに攻撃的な人はだいたい防御力が低いから。

やられ弱いから。メンタル弱いから。

自分の器のサイズを気にするようなことがあってもいいんだ。

中身をまろやかで、スッキリと、キレがあって濃いものに入れ変えればいいんだよ。

器の大きさは自分で決めるものではない。

可能性は無限大だ。

これ正論だと思うけど、取扱注意なことも確かだから。

残念なことに、そんなことを言う人のほとんどが、「言うだけ番長」だと思う。

中身にこだわって過ごすと器も磨かれる。

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足元をみる

将来の夢を語る。

5年後、10年後、いや、もっと先の夢を語る人がいる。

夢を語れないより、語れるほうがいいかもしれないけど、遠くを眺めるのが好きな人がいる。

夢や目標を想定し、10年手帳に道筋を書き、時に酔いにまかせて語る。

これはこれで立派だと思うけど、ほぼすべての人たちは、どんな夢かすら忘れて屍とかす。

お父さんは、年末に来年の目標を考える。

「人の悪口を言わない」「字を丁寧に書く」なんて、がんばれば達成できそうな目標。

ところが、年が明け1月の中旬には、どんな目標だったか忘れてしまっている。

毎年、これの繰り返し。

来年の目標ですら、この有様だよ。

マクロ的な予想や評論をする。

将来の超高齢化社会を踏まえた事業がどうとか、AIの発達による職業がどうだとかいう人がいる。

将来の予想があたるかどうか、わからない。

それでも、そんな予想にそった行動をすれば、いいけど。

予想や評論をして、将来をなげくだけの人がほとんど。

自分の人生なのに、ワイドショーのコメンテイターみたいに、言い放しで満足してどうなんだろう。

将来の夢や予想を語ってもいいけど、とかくこの手の人たちは、今日、明日を雑に生きている印象がある。

夢や将来の予想を語るより、日々の歩み、行いをおろそかにしないことが大切なんだ。

そりゃぁ、目的地や目的地の予想をすることは必要だよ。

でもね、すべてのことは、今行っていることの積み重ねの結果なのに、日々の行いを甘く見てしまうことが多い。

遠くばかりをみずに足元をみる。

1歩1歩をしっかりと踏みしめる。

そんな気持ちで、今日できることを今日行う。

遠くは、たまに見るくらいで十分。

最後に一つ注意することがある。

今日中にできない仕事が続くようなら、容量を超えているのか、効率よく仕事できていないかのどちらか。

こうなると、夢や将来を語るどころではない。

一度、立ち止まって、上司に相談するべきだと思う。

一歩づつ歩む道はひとつではないから。

そんなことを含めて、足元をみる。

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貧乏の資質

お金がない。間違いなく貧乏になることがある。

それは、支出が収入を上回ること。

収入の多寡にかかわらず、支出が収入以上なら借金をすることになる。

借金肯定説もあるけど、個人の借金は、住宅ローンを除いて、するべきではないと思う。

借金に麻痺すると必ずお金に追いかけられ、正常な判断ができなくなるから。

だから生活の基本は月給20万円なら20万円以内の生活を、月給100万円なら100万円以内の生活をするべき。

ところが、そんな生活ができなくなる資質があるんだ。

それは、虚栄心。

貧乏に直結する資質なの。

虚栄心は自分のことを実際以上によく見せたがる気持ちだよね。

見栄をはるってこと。

まず、虚栄心が強いと嘘をつく。

自分をよく見せたいから、嘘に嘘を重ねてしまう。

お父さんの知り合いで、ジェームス・ボンドばりにモテているとアピールする人がいる。

行く先先で、女性と知り合い、女性から誘われてしまった話ばかりをするんだけど、どう考えても無理があって、妄想を越えて痛々しいの。

SNSで、ブランドものに囲まれて、高級レストランで食事して、高級リゾートホテルで満喫ばかりしているリア充自慢たちも同じだよね。

お父さんには、パトロン自慢にしか見えないけど…。

虚栄心からでる嘘は、事実をちょっと盛って脚色するのではなく、無から物語を作る傾向があるからタチが悪い。

そして、実物ではなく、想像上の自分や大きな存在の自分にならないといけないから、持ち物など生活全般を飾りつけるようになる。

月給20万円が実物の自分だけど、それより大きく見せないといけないから20万円以上を使うようになってしまう。

虚栄心は実際より、よく見せたがる気持ちだから、当然そうなるよね。

虚栄心は、お金の使い方(消費、投資、浪費)なんか吹き飛ばすくらい強いパワーがあって、時に人生をぶっ壊すこともある怖い資質なの。

また、虚栄心が強いとボス猿のようにマウンティングして、自慢して、やたらと攻撃するから、誰も付き合いたくなくなるよね。

人も寄ってこなくて、貧乏になって…虚栄心最強だよね。

自慢しだしたり、攻撃的になったら要注意だね。

虚栄心が芽生えたサインだからね。

身につけたらロクなことにならないから。

まことおそろしや、虚栄心。

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社交上手

社交上手な人っているよね。

どんな人を思い浮かべる?

誰とでも容易く仲良くなって、すぐに一緒に飲みに行ったり、バーベキューとかして、いつも周りにはたくさんの人が集まっている。

知り合った途端から、気安く◯◯ちゃんとか呼べて、人付き合いの垣根がメチャクチャに低い人。

そんな風な人を、お父さんは社交上手な人だと思っていたの。

きっと人気者で仕事でも営業成績はいつもいいだろうなって。

お父さんには、とてもできないし、そんな人が羨ましかったんだ。

そんな人は、まず熱量がすごいよね。人付き合いの距離感も近いし。

自分のペースに人を巻き込むエネルギーを発しまくっている。

ある時、外資系保険会社の支社で営業成績1位の人を紹介されたの。

フルコミッションの超競争会社のNO.1だから、熱量MAXのイケイケ営業マンかと思ったのに、あらわれた営業マンは、無地の紺色のスーツに白いシャツ姿で喋り方もぽつりぽつりと話す、どこにでもいそうな普通の営業マンなの。

その話を、不動産仲介会社に勤務している知人にしたら、「うちの会社のNO.1も、そんな感じだよ」って言うの。

営業成績がいいタイプは、真っ黒に日焼けして、派手なスーツを着て、ワイワイとしている人じゃない。

その時は、社交上手と営業上手はリンクしない。くらいに思ったんだ。

それからも、お父さんは、イメージしていた社交上手タイプの人たちを見つけるたびに観察したんだ。

例えば、誰とでもすぐに友達になれて、知り合いの多さが自慢の人がいたの。

その人は、宴会の場では、周りの人を最高に楽しませて、とにかく盛りあげ上手なんだ。

そんな社交上手な彼を、宴会で一緒に大騒ぎして、楽しんでいた周りの連中が蔭では「お調子者」扱いしているの。

彼の気軽に知り合いになれる能力を周りの連中は、軽い付き合いばかりしているように思っている。

本当に怖いよね。

すぐに知り合いになれる能力をポジティブにもネガティブにも思われるのだから。

そんなこともあって、社交上手と友達作り上手はリンクしないこともわかった。

そうなると、お父さんのイメージしている社交上手なタイプ自体がほんとうの社交上手じゃないとわかってくるよね。

そんなこんなで、今、社交上手な人って、人との距離感のとり方が上手な人だとお父さんは思っている。

相手との心地よい距離、相手の心理状況を察して、距離感を変えることができる。

柔軟性のある付き合い方ができる人が社交上手と言えるんじゃないかな。

そういう人は、間違いなく相手をよく観察しているよね。

そして、相手を察したうえで、それぞれの距離に対応している。

相撲で言ったら「横綱相撲」

自ら仕掛けていかずに、相手の攻撃を見極めて、余裕でぶん投げる。

では、どうしたら社交上手になれるかな?

正直、お父さんはわからない。

これって、生まれついた才能だと思うもの。

後天的に身につけるのは難しいと思うよ。

だから、お父さんは、無理なことを目指すより、社交下手にならなければいいと思っている。

社交下手は上手の反対だから、相手との距離感に関係なく、自分の距離感だけで付き合おうとすることだよね。

社交下手は、時に強引と思われるし、孤立する可能性がある。

たまにそんな付き合い下手でなった孤立状態を「自分の世界観をもっている」と勘違いしている人がいるけどね。

最後に、社交上手とは別カテゴリーで「人たらし」「人の懐にはいるのが上手」な人がいるのよ。

可愛がれ上手で、本当に羨ましい。

これこそ、天性のもの。

でもね、自分でこの才能がわかったうえで、この能力に溺れると太鼓持ち人生が待っている、取扱注意の能力なの。

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小さな成功体験を大切に

太郎が高校1年生の時、懇親会にお母さんの代わりに急遽お父さんが出席したことがあった。

その時に担任の先生が「運動会、文化祭、合唱コンクールなどの行事で結果を残してほしい」って言ったの。

行事で結果を残すって、クラスでまとまり、作業して、練習して成果(順位)をあげること。

「たかが高校時代の行事と思わず、行事で成果をだすことが小さな成功体験となる」

「その成功体験は、今後の人生で大切なものになります」

っていうような話だった。

その他の話は、覚えていないけど「なるほど。運動会や文化祭での成果を成功体験とは思っていなかったけど、楽しい思い出にはなっている」と思った。

実は、楽しいって思うだけでも成功体験なんだよね。

また、こんな言葉を聞いたことないかな

「結果より過程が大切」

常々、これは真理だとも思うけど、結果をだした者だけが言えるよね。

結果をださない者が、過程が大切って言っても響かないよね。

だから、この言葉は微妙になぐさめ感が漂って、いやなの。

社会人になると、常に結果を求められ、結果を残さないといけない。

小さくてもいいから結果をださないとダメなの。

過程がどうのと言ったところで、相手にされない。

結果は大事なの。

楽しかったこと、嬉しかったこと。

そんな感情やちょっとした達成感を含めた小さな成功体験を積み重ねて成長するんだよね。

そして、そんな成功体験が自信の基になっていく。

だから、小さな成功体験を見つけて大切に積み重ねてほしい。

大きな成功は、小さな成功を積み重ねた結果、摑むと思う。

たぶん。

お父さんは、大きな成功を感じたことがないからわからないけど…。

普通は成功体験より失敗した体験のほうが多いよね。

失敗した体験で、臆病になるし、より不安を感じるようになる。

でも、それは誰もが同じだから。

しょうがないから。

お父さんはそう思っている。

うれしさや楽しさ。そして成功体験を敏感に感じてほしい。

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初めてを、始まりを大切に

初めて会った人の印象や、初めて経験したことの感じ方で、その後の方向がまったく異なることがある。

人は、最初の印象やおもいに、引きずられやすいもの。

だから、最初を大切にしたいと思っている。

例えば、お父さんの毎日の服装は、その日誰と会うかで決めている。

特に初めて会う人の予定がある日は、気をつかう。

「どんな人だろう」と想像しながら、結局、紺か灰色の無地のスーツに白いシャツのようなオーソドックスな装いになるけどね。

初対面の場の装いで必要なのは清潔感であって、派手な服装や髪型でのアピールではない。

シワのないきれいなシャツにプレスの効いたズボンを履いている人と、ヨレヨレでブカブカのジャケットを着て肩にフケが積もっている人。

きれいなシャツを着ている人と付き合っていきたいよね。

ヨレヨレでブカブカでは、最初からマイナスポイントゲットしすぎだ。

また、自分のために始まりを大切にすることもある。

初めて訪れる場所は、着いてから数時間の印象で好きにも嫌いにもなる。

だから、初めて訪れる国では、安心して宿泊できるホテルを予約するし、車で空港に迎えにきてもらう。

一定の水準以上のホテルなら、サービス内容も予想できるからね。

不愉快な印象を持つかもしれないことは、避けて滞在し始めたいんだ。

始まりの印象がいいと、好きになれる。

また、誰かのために始まりを大切にしたい。

自分が何かを教える立場だったら、どう教える?

最初から上手くいったり、褒められたりしたら、好きになって続けられそうだよね。

だから、誰かの始まりを応援することも意識したいよね。

つまり、始まり方がいいと、つながるんだよね。

つながりは、すべての源。

誰もが今日から明日へ、毎日つながりながら生きている。

そして、終わりも次への始まりだから、慎重に終わらせたいよね。

好循環で暮らすには、始まりと終わりが雑ではダメ。

例えば、生活のリズムが狂っていると感じたら、起床と消灯を慎重にするといいよ。

初めてを、始まりの大切さを、軽く扱ってはいけない。

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