器の大きな人に憧れる時があるかもしれない。
人の器とは、包容力、対応力、才能や知識を生かす力を収めたものだと思っている。
あと、わかっているのに何も言わない優しさのような鈍感力も。
器は、人によって大きさや形が違う。
ショートサイズからベンティサイズもしくは、どんぶり、クーラーボックスまでいろいろ。
そして、器の大きさや形は、他の多くのものと同じで、自分ではわからないもの。
むしろ、他人の方が、わかることが多い。
「けっ。まったく器のちっちゃいヤツだな」なんて。
器の大きさや形は先天的なもので、努力しても変わらないと思う。
そして残念だけど、大きさ以上のものを入れると、溢れたり、壊れたりするんだ。
お父さんは何人も見てきたから、これは本当。
「宝くじ3億円当たったら、不幸になった」なんて、3億円入らない器だった人の器が壊れたってことだから。

それで、お父さんは器の大きさや形は変わらない前提で、変えるべきは器の中身だと思っている。
大きさは変わらないのだから、入れるものにこだわる。
入れるものとは、希望、こころざし、行動、失敗、恥、経験など、なりたい自分を構成する素。
そして、入れるものは、自分で選択できる。
受け入れられないものは入れなければいい。
そんな時に気をつけることは、受け入れないものを批判しないこと。
とかく人は、自分の器から溢れるものを批判するから。
だから器の小さい人は、攻撃的になってしまう。
ちなみに攻撃的な人はだいたい防御力が低いから。
やられ弱いから。メンタル弱いから。
自分の器のサイズを気にするようなことがあってもいいんだ。
中身をまろやかで、スッキリと、キレがあって濃いものに入れ変えればいいんだよ。
器の大きさは自分で決めるものではない。
可能性は無限大だ。
これ正論だと思うけど、取扱注意なことも確かだから。
残念なことに、そんなことを言う人のほとんどが、「言うだけ番長」だと思う。
中身にこだわって過ごすと器も磨かれる。