「不公平だ」って叫ぶ大人いるよね。
そんな大人はインチキ野郎か嫉妬深いか精神年齢が低いかだろうね。
とても信用できるヤカラでない。
なぜなら、「不公平」は、生きるうえでの前提条件でしょ。
夏の甲子園で雨のため、9回を終えることなく途中の回で勝敗が決まってしまったことを、「不公平だ」「負けた球児たちがかわいそうだ」とテレビで立派な大人と思われている人たちが吠えていた。
野球のルールという、不公平な世の中でも公平な争いで勝敗が決まったことに、感情的な情緒を持ち込んで「不公平だ」と叫ぶ。
ルールに基づいて戦い、一方が勝者となり他方が敗者になる。
そんな当然なことにすら「不公平だ」と言いだしたら、発言力があり、声の大きな者の言う通りになってしまう。
それこそ、公平も不公平も超越した独裁的なことになってしまう。
より平等で公正な社会を目指す社会主義国の現状をみても、権力と資産が結びつき、公平な社会とは程遠いように見える。
それぞれ皆、生まれた時から環境が違う。
生まれた時から、不公平なんだよね。
遭遇する多くのことが、不公平。
繰り返すけど、不公平を前提として受け入れて生きていかなくてはならない。
不公平だと泣いたり、文句を言っても、どうにもならない。

以前、英会話学校のアメリカ人講師が、「unfair」という単語は、子供が頻繁に使う単語だと言っていた。
大人は「unfair」が当たり前だとわかっているから、使わない。
「不公平だ」「ズルい」なんて言葉は、成熟した大人が使う言葉ではないんだ。
実は、不公平な中で最も公平な時って学生時代なんだ。
勉強、運動、芸術など、個々の能力だけで勝負できる時なんだ。
できる、できないを数値化して、順位がでる。
例えば、模擬テストを受ければ、順位がわかる。
家の事情や環境など間接、直接的に影響はされるけど、同じテストをうけて、同条件で勝負できるんだ。
「不公平だ」って言いまくっていた時が、公平だなんて皮肉だよね。
社会人になると、同条件で競える機会はほぼないから。
そんなこと、学生時代には考えもしなかった。
過ぎてわかることって多いけど、賢いヤツはわかっていたかもしれない。
だから今できることは、不公平な社会でどう過ごすか、いかに戦うか。
不公平が前提な中で、自分に有利なことを見極める。
こんなことだと思う。